大集會山天王院髙倉寺
陶噐莊
髙倉寺
此ほとりの土中より今も陶噐を掘出す事もれにあり
陶噐莊髙倉村にあり眞言宗
金堂
本尊 藥師佛
行基作
祖師堂
本堂の東にあり 行基菩薩 弘法大師を安す
行者堂
大師堂の南にあり 法起菩薩 役行者を安す
大日堂
本堂の南にあり
鐘樓
大日堂の南にあり
鎭守社
大師堂の南にあり
熊野 白山 金比羅 梵天を祭る
弁財天社
本堂の北にあり
弁天 聖天尊を祭る
當山は文武天皇御宇慶雲二年行基菩薩開創し給ふ
いにしへは伽藍巍々として坊舎數多あり
永正十年癸酉十月十穀沙門眞海か畵する當寺伽藍の古圖に見へたり
上古は此地を呼んで修惠院とも称す
當寺の什具鐃の銘に曰久安五年十月十八日大修惠院と鐫ず
又水天尊の影像あり弘法大師の眞筆也正平年中大旱あり勅あつて請雨の法を一七ケ日此尊像に修行ありければ忽膏雨頻に降て百姓太平を誦ふ
又巨勢金岡が畵し佛像の一軸あり僧都松は此寺の北五町にありこれは惠心僧都こゝに來ツて蟄し給ふ所とかや
又梵字芝といふあり髙倉村より十町許東にして地上に梵字の形に凹なる地あり年を歴れども埋れずまた芝生生ぜずといふ
凢て當院は閑寂幽棲の地にして三密の床凉しく白月禅心を照して鬼神もよく服役するの勝地なり
今に見る大修恵山高倉寺
境内石標「真言宗 一等格院 髙倉寺」
高倉寺塔頭寶積院山門
山号額「大修恵山」
大修恵山高倉寺縁起略記
高倉寺は真言宗の寺院で修恵寺あるいは大修恵山と呼ばれていましたが「修恵」は須恵(陶)に由来するものと考えられます。行基開創49院のうち、家原寺に次いで慶雲2年(705)に造営された大修恵院と考えられる古寺です。
当寺に御幸された高倉天皇(1168〜 1179)から多くの朱印地と「高倉山天王院」の山号と寺号を賜りましたが、応仁の乱・永正7年(1510)の大地震・織田信長の焼き討ちにあい、ことごとく失われました。
真海僧正、ついで僧快盛が復興に努め、天正末年には金堂を再建しました。慶長末年(1614)岸和田城主小出播磨守秀政の三男小出大隅守三尹が分家して陶器村に陣屋をおき、当寺に帰依して諸堂の修理・改築などを尽くしました。
明治になって本坊、宝積院以外の塔頭・寺院数ケ寺は廃寺となり、現境内地を除く数万坪の土地は上地されました。
【出典:堺市設置境内案内板】
伽藍
金堂
真横から望む金堂
御影堂
寶起菩薩堂
大日堂
阿弥陀堂
弁財天
鐘楼堂
毎年、大晦日から元旦にかけ「除夜の鐘」が打ち鳴らされています
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